(カテゴリ:専任・S村 )
閲覧ありがとうございます! 専任講師のS村です。
今回ご紹介するのは「徳川家康(とくがわいえやす)」。
激動の戦国時代を制し、約250年続く江戸幕府の初代将軍となった人物です。
彼の忍耐強さには、勉強に通じるものがありまして…。
人質から独立まで
家康は最初、織田氏の人質となりますが、途中から今川氏の人質となって少年時代を過すごしました。
1560年、織田氏が今川氏を桶狭間の戦いでやぶり、ようやく自由の身になった家康はこの時すでに19歳になっていました。
信長に命じられて
その後、信長と同盟関係にあった家康は着々と領地を広げていきます。
そんな中、家康は信長に驚くべきことを命じられます。
「謀反の動きがあるため、息子と妻を殺害せよ」
これには家康も悩んでしまいます。
しかし、当時力をつけていた信長に背くことは、徳川家がつぶれてしまうことに繋がります。
家康は涙を呑んで、息子と妻を処刑することになります。
彼は後年までこのことを嘆いたといわれています。
本能寺の変から秀吉との激突
1582年、本能寺の変で信長が死去。
ちょうどその時期に大阪の堺に来ていた家康は、追手から逃げて命からがら居城に戻りました。
明智光秀を倒し織田家の実権を握った秀吉は力をつけ、いよいよ家康は天下をかけて秀吉と直接対決を行いました。世にいう、小牧長久手の戦いです。
結果は、家康の勝利。
しかし、同盟を組んでいた織田信雄(信長の次男)が秀吉と和睦(仲直り)をしてしまったので、家康の勝利は無効になってしまいました。
ここでも、我慢を強いられる家康…。
関ケ原の戦いから天下統一まで
それでも、家康は耐えました。
そして1598年、秀吉が死去すると、これが最後のチャンスと言わんばかりに豊臣家との戦争を仕掛けにいきます。
1600年、関ケ原の戦いに勝利した家康は豊臣家の実権を握り、1603年に江戸幕府を開きます。
当然、豊臣方は反発しますが、家康はそれを逆手にとって大坂の陣を行い、豊臣家を滅亡へと追い込みます。
1615年、家康、74歳での天下統一が成った瞬間でした。
耐えて耐えて目標を叶える
皆さんは、家康ほどではなくとも、勉強において何かに「耐える」経験はしたことはありますか?
成績が振るわない、単語が覚えられない……いろいろな苦労が勉強に付きまといます。
そんな時に、家康の姿を思い出してみてください。
彼は、どんな苦難に襲われても、それを真っ向から受け止め、乗り越えて天下を統一しました。
成績が振るわなくとも、今できる努力を続けていく。
単語が覚えられなくても、覚えられるまで書いたり読んだりしていく。
泥臭いようですが、そういった地道な努力こそが苦難を乗り越える糧になるのです。
段々と寒くなってきました。
体調管理を怠らずに!
㈱シニア 札幌家庭教師派遣センター 専任講師 S村