(カテゴリ:専任・S村 )
閲覧ありがとうございます! 専任講師のS村です。
歴史の授業で一度は聞いたことのある名前、織田信長(おだのぶなが)。
楽市・楽座を行う、比叡山延暦寺を焼き討ちする、新しいもの好きなどの性格から、「怖い」「カリスマ」「かっこいい」といったイメージがあることでしょう。
その信長、近年の研究でそのイメージが大分変化してきています。
周りの大名に対して粘り強い
戦国時代は常に争いをしていた時代ではありません。
時には手を結び、時には裏切り、そして時に戦うという手段を慎重に選び、自分の領地を守り、広げていくことが戦国大名の基本的な生き方でした。
信長もその戦国の生き方を貫いた一人です。
世間がイメージするような、ものすごく奇抜なことをやったわけではありません。
具体例として、武田信玄(だけだしんげん)と上杉謙信(うえすぎけんしん)に対する態度が挙げられます。
信長の領地はちょうど、信玄と謙信の領地に接していました。
ということは、攻め込まれる可能性が高いということ。
しかも、信長の軍は弱かった。
逆に信玄と謙信の軍は戦国最強ともいわれるほどの実力がありました。
これまでのイメージならば、「信長はそんなことは気にしない」なんて言われそうですが、史実では信玄には豪華なプレゼントをして、謙信にも「洛中洛外図屏風」という美術品を送っているのです。
そして自分の領地が大きくなると態度を変え、二人に互角な態度で接するようになるのです。
相手が自分より強かったら、へりくだる。強いから仕方がない。じっと待つ。
そして自分の力がついてきたら、対等に付き合う。
こうしたことに、信長の粘り強さが見えてきます。
現実を重要視した信長
もう一つ、これまでの彼のイメージを変えることがあります。
それが、戦い方。
信長と言えば、長篠の戦いで「鉄砲をたくさん作って武田氏を破った」などの話があり、天才的な戦い方をしたといわれています。
ですが最近は、彼の戦い方はシンプルだったのではないかといわれています。
桶狭間の戦いという有名な戦いがありますね。
ちっぽけな弱小大名だった信長が、強大な大名の今川義元(いまがわよしもと)を破った戦いです。
しかし信長にとって、この戦いは「天気」や「相手の様子」などの運が重なって勝てた戦いにすぎません。
その後の彼は、シンプルかつ正攻法な戦い方を用いていきました。
実は、「長篠の戦いで三千丁の鉄砲を使った」なんていうことも、今や研究者の間では否定されてきています。
その場の運に頼らず、現実的な作戦を取っていたのが、織田信長という武将なのです。
信長は勉強に必要な考えを大切にした
粘り強く、そして現実的な作戦を建てながら戦う。
勉強も同じで、勉強の習慣がついていない、あるいは、自分の実力に合わない勉強の仕方をしている、などといったことがあると、テストでの良い点は望めません。
ましてや、志望校合格など、夢のまた夢。
信長は、自分の勢力が大きくなるまで、強敵の信玄や謙信と戦いませんでした。
その間、別の勢力と戦っていたのです。
同じく、自分がどのレベルにいるのかを見極め、学校のワークから復習すべきなのか、それとも、もう一つレベルの高いテキストを使うべきなのか判断してほしいと思います。
また、粘り強く学習することも忘れてはなりません。
勉強したその日のうちに成績が急に伸びるなんてことはほぼ100%ありません。
続けて、続けて、続けることで、学力は伸びていくものなのです。
後世に語り継がれる男、織田信長。
彼の凄さは、自分のレベルを分析して、粘り強く、現実的に物事を考えたところにあるのかもしれません。
札幌 家庭教師シニア 専任講師 S村