(カテゴリ:専任・S村 )
閲覧ありがとうございます! 専任講師のS村です。
さて皆さんは、「伊能図」というものをご存知でしょうか。
本日ご紹介する偉人、伊能忠敬(いのうただたか)が中心となり作り上げた日本地図です。
現在使われている地図と比べ、ほんの少し誤差があるだけの、驚くほどに正確なものです。
伊能図の完成度に関しては、こんなエピソードも残されています。
幕末、日本に来たイギリス艦隊が江戸幕府に対して、「この国の測量をさせてほしい」と言いました。
「外国人を追い払え」と主張する攘夷派が力をつけているこの時代、幕府はどうにか測量をやめさせようとしますが、策がない。ついにイギリスは測量を始めてしまいます。
しかし幕府の役人の一人が、イギリス側に伊能図を見せたところ、「えっ、こんな正確な地図があるの? 日本人、こんな技術持ってるの?」とたいそう驚き、測量をやめて引き上げていったというのです。
幕府の外交にも影響を与えた伊能図。
それを作った忠敬は、とにかく学問に情熱を燃やした人でした。
決断力と行動力
伊能忠敬と地図に関するエピソードは沢山ありますが、彼が地図を作り始めるための旅に出ていったとき、いくつだったかご存知でしょうか?
55歳です。
学校で習う彼の業績は、55歳以降の話。
ではそれまで、何をしていたのでしょうか。
忠敬は、1745年に上総国(現在の千葉県)に生まれました。
次男だった彼は、佐原村というところにある酒造り(お酒を造る商人)の伊能家に養子に出されます。
ところがこの伊能家、お金がない。
そこで活躍したのが忠敬でした。
彼はお酒造りだけではなく、米の取引、薪(燃料)の仕入れと業者への販売などを行い、10年で伊能家を立て直します。
努力だけの人と思われがちですが、決断力と行動力にあふれた人でもあったのでしょう。
財産を投げうってでも人を救う
36歳で伊能家を継いだのち、1783年に天明の大飢饉(だいききん)が発生します。
飢饉とは、農作物が十分に実らず、食物がなく人々が飢え苦しむことをいいます。
佐原村も例外ではなく、農作物が全く取れない事態となりました。
そこで忠敬は、自分の財産を使い、村民たちにお米やお金を与えました。
結果、佐原村では一人の餓死者も出さずに済んだといいます。
のちに伊能図を完成させる忠敬。
彼の決断力・行動力はすでにこのころから培われていたに違いありません。
後編→https://senior-sk.com/seniorblog3/archives/589では、いよいよ忠敬が測量を開始!
彼の姿から見えてくる、勉強に必要なこととは……?
㈱シニア 札幌家庭教師派遣センター 専任講師 S村