(カテゴリ:専任・S村 )
閲覧ありがとうございます! 専任講師のS村です。
今回も歴史上の偉人を紹介してまいりますよ!
今回ご紹介するのは、「フランシスコ・ザビエル」
戦国時代において、日本でキリスト教を伝えた人物です。
イエズス会という言葉とともに覚えている人も多いのではないでしょうか?
彼の生涯から見えるものは何なのか?
哲学の勉強からイエズス会の設立まで
元々、ザビエルはヨーロッパの地方貴族の一人であり、大学で哲学を学んでいました。
そこに、転校生のイニゴ(ロヨラ)がやってきて、ザビエルは次第に彼の影響を受けていき、キリスト教の聖職者(人々を教え導く役割の人)を志すようになります。
1534年8月15日、ザビエル、ロヨラたち7名によって、「世界にキリスト教を広める」という目的の下にイエズス会が創立されました。
イエズス会はスペインの宣教師をヨーロッパから見て西側に、ポルトガルの宣教師を東側に派遣しました。
東側…つまりアジアを中心として布教活動を行おうとしたザビエルの活躍が、ここから始まります。
ヤジロウとの出会い
さて、ヨーロッパを出発したザビエルは、アフリカ大陸を経由し、インドのゴアという都市にたどり着きます。
ここから、インド各地を回り、キリスト教を人々に広めていきました。
最初から日本を狙ってきたわけではないのですね。
しかし、ここで思いがけない出会いを果たします。
インドでの布教の途中、ある日本人が話しかけてきたのです。
彼の名前は、ヤジロウ(またはアンジロー)といいました。
ヤジロウについての史料は少ないのですが、若い時に人を殺してしまい、逃げた先に泊まっていた船に忍び込みこのインドに逃げてきたといいます。そして、その罪を告白するために、聖職者たるザビエルに会いに来たそうです。
ザビエルはヤジロウから、彼の出身国である日本の文化レベルを聞き出し、「その国で布教をしよう」と決心します。
そして1549年8月15日、ヤジロウと少しの同行者を引き連れたザビエルは鹿児島へと上陸しました。
戦国大名との出会い
1551年、ザビエル一行は日本の中心地・京に到着しました。しかし、その荒れ模様に驚きます。1400年代後半の応仁の乱、そして大名同士による戦乱により、京は荒れ果てていたのです。
ザビエルは天皇と室町幕府の将軍に面会しようと考えましたが、拒まれてしまいます。これには献上する品がなかったことや幕府の力が衰えていたことなどの要因がありました。
ザビエルは残念な気持ちで、京を去ります。
しかし、彼にはある作戦が思い浮かんでいました。
「日本の将軍よりも力のある、戦国大名に布教の許可をもらえばいいんじゃないか?」
さっそく、ザビエルは山口の大内義隆(おおうちよしたか)という戦国大名に献上の品をもって会いに行きます。これには義隆も大変喜び、キリスト教の布教許可を与えます。ザビエルは500人ほどの布教に成功します。
さらに、豊後国(ぶんごのくに・現在の大分県)では有力守護大名・大友宗麟(おおともそうりん)と会い、ここでも布教の許可をもらいました。
中国での布教を志すも…
ザビエルは、日本での布教のためには日本に大きく影響を与えている中国での宣教を先に行うべきであると考えるようになりました。
中国でキリスト教が広まれば、仏教が広まったのと同様に、日本でもキリスト教が広まると思ったのでしょう。
彼は中国に向かいますが、なかなか中国に入ることができずに、病死してしまうこととなります。わずか46歳の若さでした。
計画に基づく行動力
ザビエルの生涯から見えることは、失敗や経験を活かし、「次はこうしよう」という計画を立て、実行に移していることです。
キリスト教の布教に将軍があてにならないなら、戦国大名に協力してもらおう、といったことが当てはまりますね。
ただやみくもに行動するのではなく、計画に基づいているのです。
勉強も同じです。
テストで100点を取りたい、北大に合格したい。
そうした目標があるとしたならば、ただやみくもに問題を解いたり暗記をしたりするのではなく、どういった計画を立てるのかが非常に大切になってきます。
もちろん、計画にも種類があります。長期的な計画や短期的な計画(詳しくはこちらとこちらを参照!)。それらがうまくかみ合うように、自分だけで考え込まずに、先生や家族と相談していきましょう!
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基本的な予防を徹底しましょうね!
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㈱シニア 札幌家庭教師派遣センター 専任講師 S村